インターネット全盛期といっても良い時代ですから、当然webデザイナーは重要なお仕事ですよね。携帯端末やタブレット端末の普及もあって、パソコンだけでなく、あらゆる場面で、インターネットが利用されている現在ですから、尚更webデザイナーの仕事は重要です。そんなインターネット時代を引っ張っていく仕事は、とても魅力的です。
Web制作に関わった人ならだれしも心を痛めていると思いますが、中傷コメントをときどき見かけます。運営者本人は悪くないのに、サイトを閉じるケースも少なくないと聞きます。なんだか気の毒ですね。そこで、Web制作でサイトの質を落とさないためにコミュニケーション欄を設けない人もいます。読者の反応がダイレクトに伝わらないので寂しさはいくらかあるかもしれません。しかし、心無い訪問者からは守られます。
広島弁護士会所属の男性弁護士(63)(広島市安佐南区)が約7年前から、依頼人から預かった数千万円から1億円を着服した疑いがあることが捜査関係者への取材でわかった。
広島県警が業務上横領容疑で捜査している。
捜査関係者らによると、遺産分割事件で相続人に渡すために預かった金などを着服したとされる。不正行為は10件以上あるという。
弁護士は、依頼人から金の返還を求められると、別の依頼人から預かった金を流用したり、引き延ばしたりしていた。着服した金は、自宅ローンの返済や海外旅行などの遊興費に充てていたという。
同弁護士会も事実関係を把握し、懲戒処分を検討中。現在、弁護士は自宅に帰っておらず、連絡が取れないという。この弁護士については、同弁護士会が2009年5月、依頼人に提訴したとうそをついて文書を偽造したとして、業務停止2か月の懲戒処分としている。
「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。生き残った元震洋隊員たちが、この日本軍の「人間兵器」について証言した。
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1944年10月20日、奈良県の三重海軍航空隊奈良分遣隊。予科練と呼ばれた海軍航空隊の講堂に、当時18歳の村上孝道さん(84)らが集められた。上官は呼びかけた。「特殊な兵器ができた。志願する者はないか」
「家族を守ろう」と志願した村上さんらは、窓を目隠しされた汽車で長崎県川棚町の臨時魚雷艇訓練所へ向かった。そこで見たのは、小さな木製ボートだった。
「何じゃこりゃ。これに乗るのではないだろう」。海軍に入って初めての愚痴だった。
45年3月、茨城県土浦市の予科練で震洋隊に選ばれた当時18歳の根本栄さん(85)も、川棚町の訓練所で震洋を見た印象を「波で壊れないかと思った」と振り返る。根本さんの場合は志願ではなかった。「上官から告げられた。なぜ自分が選ばれたのか今でも分からない」という。
村上さんは3カ月間、操縦、自爆装置の扱いなどの訓練を受けた。45年3月に赴いた中国南部の廈門(アモイ)で、8月11日に出撃命令を下された。待機の間、着用を指示されたのは飛行服だった。「飛行兵として死なせてやりたいという配慮だったのでしょう」。だが、そのまま15日を迎える。「特攻兵は全員殺される」といううわさが流れる中、日本に復員した。
一方、根本さんは6月に本土決戦要員として静岡市清水区三保の震洋隊に配属された。25隻あるはずの震洋は4、5隻しか配備されていなかった。玉音放送を聴き「死なないで帰れる」と思った。
× ×
戦後、「生き残った負の思いがある」という村上さんは仲間の霊を慰めるため仏門に入った。住職を務める寺の本堂に、手作りの全長約3メートルの零戦が安置してある。「仲間はこれに乗りたくて予科練に入った。飛行機を置けば、みんなここに戻って来るのでは」。そんな思いで3年かけて作った。今年も「二度と戦争はしてはならない」との思いを込め、15日に零戦を供養する。
根本さんは家業の農業を継いだ。「多くの先輩が死んだ。死んだつもりで働こう」と農民運動から政治へ。故郷の茨城県高萩市議を9期務めた。特攻の経験は「自慢話になるようで」若い市議たちには話していない。【扇沢秀明】
◇震洋
旧日本海軍の水上特攻兵器。全長5.1メートルの1人乗りと6.5メートルの2人乗りがあった。自動車エンジンを積み、船首に爆薬250キロを搭載。44年に開発開始。約6200隻が建造され、フィリピン、沖縄、日本本土などに配備された。特攻や出撃基地への移動中に戦死した隊員は約2500人という。
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東日本大震災から5カ月。毎日小学生新聞に日記「大沢からの報告」を掲載中の岩手県山田町立大沢小(89人)では、7月下旬に例年より1週間遅い夏休みが始まった。校庭に建った仮設住宅への引っ越しが終わり、校舎内の避難所は閉鎖。すべてが流された日から一つの区切りを迎え、子供たちは余震に耐えつつも復興への希望をはぐくんでいる。(3月11日現在の在校児童が執筆、一部省略)
●7月11日
あの日から4カ月。いまだに地震がおさまらない。地震が起こると心の中で「おさまれ、おさまれ」と願う。あの日の記憶が蘇(よみがえ)ってくるようで恐怖心もおさまらない。そして、今でも送られてくる物資。当たり前だと思わないで、その人がどんな気持ちで送ってくれたのか感謝の気持ちを持ち続けたいです。(中村奈緒・中1)
大沢小に建てられていた仮設住宅に日曜日(7月10日)、避難所にいた人たちが入った。今までは生活が不便だったと思うけど、これからは自分の部屋で生活できるからうれしいと思う。でも、まだ入れてない人もいるから早くみんなが入れるといいな。(古久保優希菜・6年)
震災から4カ月。今はプールにも入っています。あの時はプールに入れることなんてないと思いました。でも、今はプールにも入って給食も食べて、とても幸せです。(佐々木あみ・6年)
●7月14日
ファッションセンターしまむらがオープンした。すごい人、すごい車。たくさんの人が並んでいた。山田の人がお店のオープンを待ってたんだなぁと思った。しまむらができたことで、“前の大沢”に少し戻ったような気がした。(古久保優希菜)
お母さんが働いているお店の開店日だ。お父さんと行ったら、かわいい物がいっぱいあった。だんだん大沢がもとにもどっていくように感じた。(中村百花・5年)
●7月22日
今日で、ぼくは13歳です。あの日から初めての誕生日がきました。こんな状況だからパーティーはできなかったけど、仮設住宅に入ってからするので楽しみです。(大川海成・中1)
今日はぼくの誕生日でした。ケーキを食べて、すごくおいしかったです。(大川海渡・中1)
●7月23日
今日は午後、急にガタガタと強い地震が来た。またか……と思った。だけど、津波は発令されなかったので塾に行った。ため息が出るばかりだ。(中村奈緒)
●7月26日
将君のお別れの会の準備がありました。将君が転校したら人数が少なくなるけど頑張りたいし、中学生になったらまた会えると思うので楽しみにしていたいです。(伊藤徹・6年)
震災でたくさんの人たちからはげましのメッセージをいただいた。お礼のハガキを出したら、「頑張ってね」「病気してない?」「私は自分でできること、節電をしています」と書かれた手紙が届いた。私と同じ小学生でできることを工夫してやっているんだなぁと思ったら、すごくうれしかった。(古久保優希菜)
●8月6日
仮設住宅に入居することになった。朝からおじいちゃんの仮設に行き、荷物運びを手伝った。おじいちゃんの入居の準備が終わって、ぼくの家の仮設住宅に初めて入りました。すごくきれいだと思った。これから、そうじしたりして、きれいに整えていきたいと思いました。(大川海成)
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